世の中に絶対善もなければ、絶対悪もあるものでないことは、霊界物語によって示さるる通りであるが、強いて絶対善を求むるならば、「愛」こそはそれであり、「憎」こそ絶対悪である。
〜「絶対善と絶対悪」『水鏡』〜
 無始無終の宇宙間において、もっとも強く美(うるわ)しきものは愛の発動なり。大虚空中に愛の発動ありて始めてスの言霊は生まれ、天地の万神は生まる。ゆえに神は愛なり力なりと称するゆえんなり。

 愛あるがゆえに宇宙は創造され、万物は発生す。宇宙間いっさいのものはこの愛に左右され、創造も、建設も、破壊も、滅亡も、混乱も生ずるものなり。愛はもっとも尊むべく、かつ恐るべきものとす。…

 愛の情動にしてその度合よろしければ、生成化育の神業(みわざ)は完成し、愛の情動の度合過ぐれば、ついには一切を破壊するに至る。

 しかして、愛には善あり、悪あり、大あり、小あり。神の愛は「愛善」にして、世間一切の愛は「愛悪」なり。神の愛は大愛にして世間の愛は小愛なり。

 わが身を愛し、わが家を愛し、わが郷土を愛し、わが国土を愛するはいわゆる自己愛にして、神の大愛に比して雲泥の相違あり。…世間の愛は他をかえりみず、ひたすらにわが身を愛し、わが家を愛し、わが郷土を愛し、わが国家を愛するがゆえに、他よりもし不利益を加えらるると見る時は、たちまち立って反抗し争闘し、身を破り家を破り国家を破るに至る。恐るべきは愛の情動の度合なり。
〜『霊界物語』第74巻第14章「真心の曇らひ」〜
 世の中に一番強いもの、それはなんだといえば、愛であります。そしてこの宇宙万有一切は、神の愛の力によって出来ているのである。愛というものがなかったならば、一切の天地も亡んでしまうくらいなものであります。

 そして愛には愛の善と愛の悪とがある。

 この愛の善というものは絶対の愛。いわゆる「愛善」は、天国すなわち神の国よりほかにないのであります。

 現実界の愛はすべて物質が伴うておる。物質が伴うておると、どうしても濁りというものがある。この物質界には絶対の愛はない。絶対の愛の善というものはないのであります。現実界はいわゆる愛の悪である。…

 しかしながら吾々は、現界において絶対に愛悪の世界を愛善にすることは出来ないという考えをもってはいけないのであります。この現実界を愛善の世界にしようと思えば、まず神さまを信じ、そして神さまの御心になって現実界に臨んだならば、愛善の世界が築かれるのであります。いわゆる語を代えて言えば、「弥勒の世」が地上に樹つのである、天の岩戸が開くのであります。それでどこまでも、吾々は愛を徹底的に行なうてゆかねばならぬ。
〜「愛善の真意義」『出口王仁三郎全集1』P389〜
 愛というものはほんとうに人を動かし、愛一つで世界をうでくりかえすこともできるものである。

 元来、宇宙万有は神の大愛によって造られたものであるから、ほんとうに神の大愛に徹したなれば、人のみならず畜類虫族はもちろん、山河草木にいたるまで喜び靡かないものはない。無限大の宇宙といえども自由になるものである。

 自分がいうことを、どうしても他人が聞いてくれないというのは、愛がたりないのだ。ちょうど親がわが子を愛するごとき愛をもちさえすれば、いかなるものでもこれに服従しないものはないけれども、いまの人間は「愛々」というても表面(うわつら)の愛で、ほんとうの、わが子を心の底から愛する慈母のような愛ではない。ほんの表面(うわべ)の愛にすぎない愛じゃ。

 全世界の人類のみならず万有を愛護される大神さまの大神業(おおみわざ)に奉仕させていただく者は、この心にならねばならぬ。
〜「愛の力」『出口王仁三郎著作集3』P9〜