左上の書…出口王仁三郎・揮毫「光」(個人所有のものを許可を得て使用しております)

宗教論

 神の存在を否定する人々に、むつかしい理屈は禁物である。野に咲いている百合の花を見せて、もしその人が「美しい」といつたら、それでよいのだ。その人は十分に神の存在を知っている人である。すなわち、その人は理屈で神を否定しながら直感で神の存在を知り、肉眼で神を見ないが、すでに魂のどん底で神のささやきを感得しているのである。

 …神は理屈で論ずべきものでなく、肉眼で見るべきものでなく、直感で知り心のささやきで感ずべき存在なのであるから、神を否定している科学者や理論家たちも、結局、科学や理論では神はわからないということを証明しているにすぎないのである。
〜「直観力を養え」『出口王仁三郎著作集3』P369〜
 宗教は芸術を生み、芸術はまた宗教を生む。芸術は人生の花である。人生に宗教および芸術無き時は、世の中は実に寂寥(せきりょう)な、そして無味乾燥なものである。そして、変愛と信仰とは人生に欠くべからざる真実の果実である。

 神仏やその他の宗教を信仰するというのも、要するに恋愛を拡大したものであって、宇宙の元霊たる独一真神(どくいつしんしん)を親愛するのを信仰といい、個人を愛するを恋愛という。ゆえに恋愛と信仰とはその根底を同じうし、ただ大小の区別があるのみである。

 いずれの宗教も、社会人心の改良とか人類愛の実行とか、霊肉の救治とか、天国の楽園を地上に建設するとかいう趣旨の他に出づるものでない。ゆえに古往今来、幾多の宗教が現われても、人生に光明を与うるをもって目的とせないものはない。期する所は同一の目的に向って流れているものである。…

 …自分は、宗教の宣伝使をもって自認して居るが、同じ宇宙唯一の大神霊に向かって、同じ神霊の愛に浴せんとする目的をもっている宗教である以上は、眼目点さえ同じければ、枝葉にわたる宗教的儀式や説き方などは次の次である。

 宗派および信仰を異にする人々と対立した場合の自分の心持ちは、春の花見に行った時、一方には上戸がおって酒に浸り、『酒無くば何の己がさくらかな』というて一日の歓楽を尽くす人と、竹の皮の握り飯を開いて食っている人や、芸者などの手を引いて花の下で他愛なく戯(たわむ)れている人があるように、いずれも目的は花見にあるのである。その人々の嗜好によって、千種万様の自由自在の歓楽を尽くしているようなもので、その目的さえ一つであれば、別にいやな感じもせず、春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)として面(おもて)をやわらかに吹くような感じがする。
〜「信仰は異なるとも」『出口王仁三郎全集2』P146〜
 世の中が至粋至純であれば、神様の教えは要らぬのであります。世が乱れて人々が互いに悪(にく)み、妬(ねた)み、謗(そし)りなどする世の中となっているからして、中にも日本人はそんな癖が多く、いわゆる島国根性であって、外国からも探偵気分が多いと言われる状態(ありさま)で、他人の非を探すことを痛快事と考えるような僻があるのである。他人の悪いと思う所は、直接その人に忠告をし、決して他人の非を言わぬに限るのであります。すなわち善言美詞(ぜんげんびし)に限るのである。…

 祖先以来、愛国主義が誤って排他に陥り、自己愛になってしまっては善くない。世界同胞の考えを持たねばならぬ。排他は神意に反することであって、今の時代、小さい事を言っているようなことでは駄目である。…

 宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである。主義、精神が第一であって、大本であろうと何であろうと、名は少しも必要ではないのである。

 今までより広い大きい考えで、世を導く精神にならねばならぬ。大本は大本の大本でもなく、また世界の大本でもなく、神様の大本、三千世界の大本であることを取り違いしてはならない。因縁あってこの聖地に集まった者は、世の人に先んじて特別に善行をせねばならぬのであるが、今はかえってこれに反している。
〜「宗教不要の理想へ」『出口王仁三郎全集2』P127〜
 いつの世にも政治上、経済上、社会上、各人種の間に闘争と焦慮と苦悶とが、地上いたるところに行われている。ことに宗教の間には特にはなはだしき闘争が継続されてきたようである。宗教の世界連合も、人類の宗教的同盟も、その名のみは立派に存立するけれども、その実際の活動にいたっては容易に行われていない。

 往昔、宗教といえばたいへんな勢いで国家の一切を挙げてその所説を実践せんとしたものだが、近代の宗教はいずれも形骸ばかりがいたずらに存するのみで、何の役にも立たないのみか、かえって社会に害毒を流す傾向が沢山にあるようだ。現今、既成宗教の力というものは、数千年の惰力によって虫の息で動いているほか、何らの新しき生命の萌芽も見いだすことは出来ない。そしてその惰力は人心を邪悪の方面に導くのみで、天国的信仰の萌芽の発達を妨害する有害物となっている。…

 ゆえに、かかる既成宗教は一日も早く改善するか、さもなくば残らず崩壊せしめ、宗教本来の生命を輝かし、平和のため、安心立命のため、既成宗教の殻を脱いだ新宗教を樹立せなければ、とうてい今日の乱れきった人心を救うことは出来ないと思う。

 各宗教家が時代の推移に眼を醒まし、キリスト教は仏教の意義と相通じ、仏教はキリスト教の教義と一致する点に気がつき、衆生済度の精神が互いに相映写し、信真と愛善の本義を覚り、世界同胞の真意義が了解されなくては、もはや宗教はだめである。

 この真諦が宗教家に真に理解されたならば、ここに始めて形相の上にも、闘争や苦悶や嫉視が止んで、互いにその精神の実現につとむることになってくる。これさえ出来れば今日の経済上、政治上、人種上の争闘も、ひっきょう無意義のものだということが分明になる。どうしてもここまで漕ぎつけねは社会の真実の霊的、智的進歩は期せられない。
〜「新宗教を待つ」『出口王仁三郎全集2』P55〜
 宗教の「宗」の字は、国語にて「むね」と訓ず。宇宙一切の経緯を示すという意味である。ウ冠のウは、天地万有一切を生み出す神の経綸という言霊であり、下の示すという字は、天地人開くという意味である。

 宗教という意味は、天地人一切に関する根本の真理を開示し、神の意志によって人心を導き、民をおさめ、一切の万有を安息せしむべき意味が含まれている。ゆえに宗教は、天文、地文、政治、教育、芸術、経済、その他ありとあらゆるものに対し、根本的解決を与うるものの謂いである。

 今までの既成宗教はいずれも天に傾き、地に傾き、あるいは心に傾き、そして一切の人間界と乖離している傾きがある。…目に見えない霊界を讃美渇仰し、人間生活の要諦にふれていないものばかりである。中には立派な宗教と現代人が思っている教理は、人間の慣性たる五倫五常の道をもっぱら説いて、宗教の本旨にかなったもののように思っているのが多い。…地上の人間に対し禁欲的の教理を教え、神仏は非常に尊きもの、恐るべきものとして、ほとんど人間の近づくことが出来ないものの如く習慣づけてきたものである。
〜「真の宗教」『水鏡』〜
 社会の一般的傾向が、ようやく民衆的になりつつあると共に、宗教的信仰もあながち寺院や教会に依頼せず、各自の精神にもっとも適合するところを求めて、その粗弱なる精霊の満足を図らんとするの趨勢となりつつあるようだ。宣伝使や僧侶の説くところを聴きつつ、己みずから神霊の世界を想像し、これを語りて、いわゆる自由宗教の殿堂を各自に精神内に建設せんとする時代である。

 既成宗教の経典に何事が書いてあろうが、自ら認めて合理的とし、詩的とするところを読み、世界のどこかに真の宗教を見いださんものとしている。…

 従前の宗教は政治的であり専制的なりしに引き替え、現今は芸術的であり民衆的となって来たのも、天運循環の神律によって仁慈(みろく)出現の前程といってもよいのである。
〜『霊界物語』第48巻序文〜
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