左上の書…出口王仁三郎・揮毫「光」(個人所有のものを許可を得て使用しております)

恋愛論

 恋というのは子が親を慕う如き、または夫婦が互いに慕い合う如き情動をいうのであって、愛とは親が子を愛するが如き、人類が互いに相愛するが如き、情動の謂いである。信者が神を愛するという事は無い。神様を恋い慕うのである。神様の方からは、これを愛したまうのである。ゆえに信仰は恋愛の心というのである。

 恋愛となると全く違う。善悪、正邪、美醜などを超越しての絶対境である。お互いが全くの無条件で恋し合い、愛し合うので、義理も人情も、利害得失も何もかも忘れ果てた境地である。だから恋愛は神聖であるといい得るのである。

 今の若い人達が、顔が美しいとか技量が優秀であるとかいう条件の許に惚れ合うておいて、神聖なる恋愛だなどというのは、恋愛を冒涜するものである。…

 真の恋愛には美もなく、醜もなく、年齢もなく、利害得失もなく、世間体もなく、義理もなく、人情もなく、道徳もなく、善もなく、悪もなく、親もなく子もない、全く天消地減の境地である。

 人として真の恋愛を味わい得るものが、果たして幾人あるであろうか。
〜「恋愛と、恋と、愛」『水鏡』〜
 恋愛は人格と人格との結合でなくては嘘である。人格と人格を基礎として築かれた結婚生活には永続性があり、未来性がある。

 男女がお互いの人格を見いだすまでには相当の時間が要る。色眼の使い方で恋愛が発生して、結婚が自由だなぞとは、あまりにも自分というものに対して忠実味を欠いでいる。
〜「恋愛について」『出口王仁三郎全集5』P605〜
五三公(いそこう)『恋愛は神聖だ。宗教的信仰と正しき恋愛とは、人間の霊魂を優美に向上させるものだよ。正しき信仰と完全な恋愛は人間の心霊を発育せしめ、永遠無窮の生命を与うるものだ。…

 すべて恋愛というものは性欲から分化したものだ。そして性欲の中に可能性の形において始めて含蓄されてるのが恋愛だ。この世を造り給うた誠の神様が、人間の生命に性欲を与え給うた時から、恋愛というものを含蓄させておかれたのだ。信仰と恋愛は歓喜の源泉だ。歓喜というものは心霊を永遠に保存し、かつ心霊の優美完全なる活躍を起こさしむるものだ』
〜『霊界物語』第46巻第2章「慰労会」〜
 相愛する同志が結婚してつくった家庭は、家庭としてはあまり面白くないものである。なぜなれば、霊界物語に示されてある如く、夫婦は家庭の重要品であって、家庭本位でやって行かねばならぬ。

 しかるに相愛する同志は、ややもすれば家庭を忘れて夫婦本位となる傾きがある。また相愛する同志は意思想念に共通点が多いので、何事にもすぐ共鳴しやすい。したがって夫が主張するに事には一も二もなく妻が賛成してしまう。それがまた家庭から見てはなはだ為にならぬ事がある。

 やはり夫婦は家庭本位でなければならぬから、時には夫のいう事でも家庭の為にならぬ事には反対せねばならぬ。夫婦の性格は反対の方がかえって家庭からいうと、よい夫婦である。
〜「恋愛と家庭」『水鏡』〜
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