左上の書…出口王仁三郎・揮毫「光」(個人所有のものを許可を得て使用しております)

芸術論

 芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く、親子の如く、夫婦の如きもので、二つながら人心の至情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐(おんかい)に立ち遷らしむる、人生の大導師である。…ゆえに吾々は左手を芸術に曳かせ、右手を宗教に委ねて、人生の逆旅(げきりょ)を楽しく幸多く、辿り行かしめんと欲するのである。

 …芸術は一向に美の門より、人間を天国に導かむとするもの、宗教は真と善との門より、人間を神の御許に到らしめむとする点において、少しくその立場に相異があるのである。…

 芸術の極致は、自然美の賞翫(しょうがん)悦楽により、現実界の制縛を脱離して、恍(こう)として吾を忘るるの一境にあるのである。それゆゑ、その悦楽はホンの一時的で、永久的のものではないのである。…

 瑞月(ずいげつ…王仁三郎の雅号)はかつて「芸術は宗教の母なり」といったことがある。しかしその芸術とは、今日の社会に行わるる如きものをいったのではない。造化の偉大なる力によりて造られたる、天地間の森羅万象は、いずれもみな神の芸術的産物である。この大芸術者、即ち造物主の内面的真態に触れ、神と共に悦楽し、神と共に生き、神と共に動かむとするのが、真の宗教でなければならぬ。
〜『霊界物語』第65巻総説〜
 宇宙万有を造られた真神の作品のうちで、最も繊細、緻密、霊妙を極めた最上乗のものは人間である。

 人間においても、脳髄と肉体の曲線美とは、その代表点ともいうべきものであって、万物これに比すべきものはないのである。…

 いかなる芸術家といえども、完全に神の作品を描出または模塑(もそ)することの不可能であることはいうまでもない。
〜「神の作品」『月鏡』〜
 歌を詠む秘訣は、水の流るるが如くただ安らかに、というのにある。瀬がきつければ、かたえの水は逆流する。そんな歌の詠み方はいけない、安らかにそして落ち着く所へ落ちつけばよいのである。

 上手に詠まうと思うから詠めないのである。

 また歌はどんな歌でもその底に淡い恋心が流れていなければならないものである。
〜「和歌について」『月鏡』〜
 南画(山水の一種)は詩を主とし、詩で現わせないところを絵で補おうと試みているのだから、絵としてはあっさりとしたものである。

 私の流儀は自ら称して神代派といっているが、神素盞嗚尊(かむすさのおのみこと)を心に念ずる時、ああした絵がかけるのである。絵画展覧会を見た人が、「一々描き方がかわっていて、一人の人がかいたとは思えない」と評したと聞くが、まことにその通りで、私の想念が(円山)応挙にある時その画風が応挙と現われ、(田村)月樵を思う時、その筆法が月樵流と出て来るので、私の想念次第で千種万態の画風が生ずるのである……

 そもそも芸術の祖神は、素盞嗚大神様であるから、心中この大神を念ずる時、絵画と言わず、陶器と言わず、詩歌と言わず、あらゆるものに独創が湧くのである。
〜「絵について」『月鏡』〜
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