【8分間シェア要旨 2010/7/15 第4回王仁魂講演】

- 1952年(昭和27年)7月12日、私は中野区の祖父の屋敷で生まれた。
- この祖父が出口王仁三郎と関わっている。
- 1956年に祖父は破産をし、家屋敷を手放し、神奈川県茅ヶ崎市の辻堂に隠棲した。
- 1997年にメキキの会に入会し出口光と知り合った。
- 2006年、経営する会社の労災事故を機に、一度は心が折れたが、経営理念を再構築し、人が安全安心に働ける職場を作っていかなくてはいけないと決意した。これが私にとっての立直しになっている。
- ちょうどその頃から、出口王仁三郎について調べ始め、探求するようになった。それ以前から王仁三郎の名前は知っていたし、出口光が王仁三郎の曾孫だと知ってはいたが、王仁三郎についてあまり詳しくは知らなかった。
- 2009年、王仁魂復活プロジェクトの設立とともに、副会長として参画している。
- 自分の人生を振り返ってみると──安全安心な環境に守られて、自分磨きができた──と思う。
- 私の志は「人が安全安心に居られる場をつくることで、魂が開き磨かれる世の中を実現する」ことである。
- 出口王仁三郎(1871-1948)と頭山満(1855-1944)は、戦前は東西豪傑番付のトップにあった人。
- 二人が会ったときの逸話は、『大本七十年史』や、頭山満の伝記に書いてあるが、見方が宗教的であったり、右翼的であったりする。場合によっては頭山満が王仁三郎のお金を目当てにくっついた、と書いている本もある。
- しかし王仁三郎の入蒙などの行動を考えると、大アジア主義、五族共栄の世を作ることが、みろくの世を作ることにつながっているんだ、と私は確信する。
- 昭和9年に昭和神聖会が設立される。王仁三郎が統管、頭山満と出口宇知麿の二人が副統管に就いた。
- 昭和10年に第二次大本事件が起き、王仁三郎は投獄されるが、頭山満や内田良平が嘆願書を出したりして、助けている。
- 戦後は王仁三郎も頭山満も神格化されている。
- 「自分こそが王仁三郎を受け継いでいる」と主張する宗教がたくさん生まれた。
- 頭山満も「右翼の源流」との評価をされて「自分こそがその道統だ」と主張する右翼団体がたくさんある。
- そのように、形となり、神格化されてしまったため、彼らが本当に伝えたかったこと、本質を伝え切れていないのではないのかと思う。
- 祖父の名は筒井住蓮(じゅうれん)という。(ちなみに頭山満も元は筒井姓で、母方の遠山家を継ぐことになり、頭山姓になった)
- 祖父は頭山満と刎頸(ふんけい)の間柄で、頭山満の書生をつとめていた。
- 祖父は桂太郎首相の書生もつとめていた。
- どうやらその頃、祖父は大本へ行き出口王仁三郎と会ったらしい。
- 母に「出口光は王仁三郎の曾孫」だと話したら、母は驚いて「実はおじいちゃんも会っている、大人物だということを聞いている」と話した。
- そのとき初めて祖父と王仁三郎との関係を知り、それ以降、いろいろな書物を調べ出した。
- 祖父は明治時代に瞬間湯沸かし器の特許を取り、大金を得た。
- しかし散財して、すべての財産をなくし、最後は祖父の実家の寺までもなくなってしまった。
- そのお金は何に使ったのか?母の話だと「女遊び」ということだが、しかし実は頭山満のために使ったような形跡がある。
- 興亜論は頭山満。大アジア主義、八紘一宇、五族共栄。脱亜論は福沢諭吉。
- 興亜論も脱亜論も実は一つのもの。(しかし脱亜論は「脱亜入欧」にすり替えられてしまった)
- 似たものほど、違いに不寛容になる。遠いものには無関心。そういう傾向が人間にはある。
- 不寛容から寛容へ、いかにすれば転換できるのか。
- 不寛容の部分を受け入れて、お互いの垣根を取って行く。
- 一つに凝り固まらずに、八紘一宇、五族共栄のように、垣根を取りはずして行く。言向け和して行く。
- それをミロクの世の実現のための行動としてやって生きたい。それが私の王仁魂での使命。
終