左上の書…出口王仁三郎・揮毫「光」(個人所有のものを許可を得て使用しております)

(2010年8月吉日、インタビュアー・飯塚弘明)
──本日は経済アナリストの藤原直哉(ふじわら なおや)さんにお話をうかがいます。

 どうぞよろしくお願いいたします。
【藤原】 よろしくお願いいたします。
経済アナリスト 藤原直哉さん
【藤原直哉さんのプロフィール】
○経済アナリスト。シンクタンク藤原事務所会長。
○1960年、東京生まれ。
○東京大学経済学部卒業。住友電気工業、経済企画庁経済研究所、ソロモン・ブラザーズなどを経て独立する。
○独立系シンクタンクとして「経済」「政治」「国際情勢」「組織のリーダーシップ」に関する独自の分析を行っているほか、小田原市内の里山で教育用の田畑を耕作。さらに大学生や社会人を対象に就職・転職のコーチング、カウンセリング、傾聴、英語に関する情報発信、研修、コンサルティング、社内教育、講演、執筆活動を行っている。2007年には、ロハスな暮らしを体感してもらう“最前線”として、長野県飯田市の遠山郷に「遠山藤原学校」を開校した。
○著書に『神の世直し!世界大恐慌3年目!』『生きかた革命』『ロハス夢工房』など多数あり。
シンクタンク藤原事務所
藤原直哉のインターネット放送局
◆サイエンスを勉強して神を信じた◆
──藤原さんと大本との関わりについてお教え下さい。
【藤原】 私のうちは両親とも無神論だったものですから、私も無神論者に育ちました。神も仏もあるものか、そんなものは人間の妄想だ、とずっと思っていました。

 20代の後半から30代前半にかけて、アメリカの金融機関に勤めていたんですが、そのころバブル経済の崩壊が起きました。あれは大変な一大事件でして、日本もアメリカもこれから非常に大きく変わるだろうと、仕事をしていて思いました。

 この行き着く先は、もっと静かな世の中になるだろうと、直感的に感じました。

 1991年頃、どこかで『大本神諭』を読んだんです。そこに「ビックリ箱が開くぞよ」と書いてありました。

注・明治26年(月日不明)の大本神諭に 「世界の人民よ、改心致されよ。元の昔に戻すぞよ。ビックリ箱が明(あ)くぞよ」 と書いてある。
 それを読んだときに「ああ、そうだ、これだ。ここに書いてあることがこれから起きるんだ」と直感的に感じました。

 その後、アメリカの金融機関を辞めて自分で独立した後、いろいろ御縁があり、人に連れられて大本の聖地に見学に行きました。93年か94年頃です。綾部と亀岡を参拝し、いろいろ説明を聞きました。

 気持ちのいい所だな・・・と感じましたが、このときはただそれだけです。その後も何度か誘われて参拝に行きましたが、信仰を持ったとか、そういうことはありません。

 2001年の9・11事件の少し前に、アメリカでITバブルが崩壊しました。アメリカがこけたら世界もこけてしまいます。このとき私は、アメリカはもう元に戻らない、世界は変わって行く・・・と感じました。

 ここから先は人間の思考で、論理を積み上げて未来を予測することはできないだろう。ここから先のシナリオは神にしか分からないだろう、と感じたのです。どういう順番でこの世が動いて行くか、理屈を超えたところにある・・・と、このとき強く感じました。そうしたら何故か急に神様を拝みたくなったのです。

 そこで神棚を買いに行ったんです。神棚とか神殿とかは、正しく神と向き合う、そういう場ですね。つまり神様と通信がしたくなり、神棚を買いに行ったんです。しかし、いい神棚がありません。

 そのとき、以前に大本に行ったときに親切に案内していただいた出口眞人さんを思い出し、連絡を取ってみました。──そういう経緯で大本に入信したのです。
──無神論者だった藤原さんが、なぜ神の存在を信じるようになったのでしょうか?
【藤原】 実はサイエンスを勉強していたら、神はいる、と確信するようになったのです。

 90年代に大学の教員をやっており、数学を教えていました。「無限」とか「次元」とかを文化系の学生にわかりやすく教えるために、あらためて数学を勉強しなおしました。

 数学というのは完結した体系ではなくて、実は「穴」が開いています。たとえば「無限に大きい」とか「無限に小さい」という場合には、現在の数学の枠からはみ出してしまうんです。今の体系からはみ出してしまう。そういう「穴」が開いているんです。

 「次元」というのはとても面白くて──たとえば影絵は、手は三次元ですが、それを映す障子は二次元です。次元の大きいものを小さいものに映しているわけです。

 われわれがいるこの三次元も、何かの影である、もっと大きい次元の影である、と言うことができると思います。

 当時「非線形研究会」に出ていました。世の中を見ていると、規則的に動いている部分と不規則的に動いている部分とがありますよね。良好だった人間関係が突然壊れて終わってしまうとか。突然事故に遭ってしまうとか。それを「偶然」と言って片付けてしまうんですが、しかしよく研究してみると、もとから大きく発散するような何らか構造がある。

 カオス(混沌)を研究していくと、法則とか秩序というのは、突然生まれて突然なくなることがあることが分かります。極端に言うと「リンゴは木から落ちる」と私たちは思っていますが、必ずしもそうではない、ということです。

 一瞬にして秩序が生まれ、一瞬にして秩序がなくなる、ということがあることが数学的に証明されてきました。

 いろいろな分野に応用されるようになりましたが、これを社会科学に応用するとスゴイことになり──経済や政治、国家というものも、突然生まれて突然なくなることがある、ということになります。

 量子物理学が今から100年くらい前から研究されてきましたが、すべてがエネルギーであり、形のあるものとないものとの本質的な差はないということが分かってきました。粒子を細かく調べてゆくと、波だかモノだか区別がつかなくなってしまう。

 これは今までの教育を受けてきた人にとっては、革命的なことです。科学は目に見えるものを扱い、宗教は心とか目に見えないものを扱う。宗教と科学は厳然と分けられていました。

 しかし目に見えるものと見えないものに本質的な差はない、ということが分かってきたのです。

 ですがもともとは宗教と科学は分かれておらず、一体でした。先日、専門家に伺ったのですが、「心」(という概念)が生まれたのも、せいぜい孔子の時代(紀元前5世紀頃)くらいなのだそうです。それまでは心は特に意識しておらず、人間の行動と心は一体のものだったのだそうです。

 中世の時代は、宗教と科学は一体で、宗教家が科学者を兼ねていました。

 宗教と科学が分かれてきたのは、近代に入ってからです。だからまだほんの数百年しか経っていないのです。

 それが、量子物理学などの発達で、目に見えるものと見えないものの間に本質的な差はないということになってきました。

 90年代にはカオスの理論も発達し、またフラクタル(相似形)のことも分かってきました。大きすぎて見えないものを小さいものを見て類推する、あるいは逆に小さすぎて見えないものを大きいものを見て類推することができます。大宇宙の姿を、小宇宙である人の体を見て類推する、というようなことです。

 たとえば人の生き死にも、法人(会社)の生き死にで類推することができます。会社をつくるときに定款をつくりますが、人間にも定款があるわけです。しかし会社は定款通りに営業するわけではありません。途中で変わることもあります。やることが終わって解散する場合もあります。会社に株主がいるように、人間にも株主がいるのでは?

 ──そういうことをいろいろ考えて行くうちに、神はいる、と確信するようになったのです。人は生まれたときに始まって死ぬときにすべて終わるというのは違う、と確信しました。

 ですから私の場合、病気とかの悩みがあって苦しんで、神を信じるようになったというのではなく、科学を勉強していくうちに、神の存在を確信するようになったのです。
藤原直哉氏
◆霊界物語を読むと気持ちが明るくなる◆
──霊界物語は全部で83冊ありますが(巻数だと81巻)、藤原さんは全部お読みになられたそうですね。
【藤原】 大本神諭も霊界物語も全部読みました。これはすごい本だなと思いました。

 王仁三郎聖師が言っていることは納得できることが多いです。

 登場人物がたくさんいますが、こういう人はこういうことになるのか、こういう人生になるのかと、人の生き様というものがつくづく分かってきます。改心する道筋が書いてある。──改心しない人もいますが。

 あと、こういうことがあってみろくの世になった(天の岩戸が開いた)というような箇所が何ヶ所か出て来ますが、なるほど、みろくの世になるというのは、こういうことなのかと、とても興味深いです。

 大本神諭は警告の書で、こうなると大変だ、ということが書いてありますが、ではどうすればいいのか、どう生きればいいのかということが霊界物語には書いてあります。

 なかなか人間には書けません。なるほど「御神書」なんだなあと思います。
──霊界物語はともかく長いですから、これを全部読んだ人はそれほど多くはありません。 藤原さんは長編小説を読むはお好きですか?
【藤原】 いいえ、そんなことはありません。長いのはダメです。霊界物語だけです。長いのを読んだのは。
──霊界物語はなぜ最後まで読み切れたんでしょうか?
【藤原】 なぜでしょう? 不思議ですね。 難しいこと考えずに読んでいくと・・・気持ちが明るくなりますね。鞄に入れて持ち歩いて──今日も鞄に入ってます──時間のあるときに声出して読むんですが、自然に読めてしまいます。

 理屈ぽく読むのではなく、感じるままに読むといいんじゃないかと思います。
◆ともかく行動◆
──藤原さんにとって出口王仁三郎とはどのような存在でしょうか?
【藤原】 やはり「師匠」でしょうね。

 斬られると分かっていてもあえて前に進んで行く、あの勇気と行動力というのは、本当の信仰ですよ。みんな、成功するとかしないとか、自分の小さな利害損得で考えてしまいがちですが、そんなこと考えずに、直感に従って、とにかく行動する。あれだけ大胆に行動したというのは、信仰の力だと思いますよ。

 行動して失敗しても、反省すればいい。どんな人でも、行動して反省して、また行動して反省して、それを繰り返して行けば、世の中滞りなくどんどん進んで行くと思います。

 でも今の時代はなかなか行動しませんね。みんな利害損得で考えてしまう。しかしそれでは神劇が進みません。そこであえて王仁三郎聖師が行動して、神劇を前に進めたというところがあるのではないでしょうか。
──藤原さん自身もそのような人生だったのでは?
【藤原】 いやー、私もやりたいことやって来ましたが、あれほど大胆ではありませんよ(笑)

 聖師は情が深いですね。だからあえて泥田に入って行って人を救うようなことをする。あれが本物の武士道というものなのかも知れません。
──霊界物語の登場人物もよく動く人が多いですよね。
【藤原】 そうですね、神出鬼没ですね。ここに行かなきゃいけないな、と思うときには行く。するとやはり何か意味がある。罠にはまるなと思っても、はまらざるを得ないときはわざとはまる。落とし穴に落ちたり。

 しかし、これは嫌だからやらないとか、安全第一でやって行ったら、神劇は進みません。

 霊界物語に、竜か何かに喰われてしまう人も出て来ますが、そういうことがあっても神劇は進んで行きます。神劇の元は現界よりも上の次元でやっているわけですから。

 だから勇気を持って行動にうつすことが大切です。その結果いろいろなことが起きてくる。その起きてくること対処し乗り越えて行くと、どんどん良い世の中になって行くのではないでしょうか。

 これがみろくの世の人の生き方だと思います。聖師は「良いことをすればどんどん良くなる、悪いことをすればどんどん悪くなる、それがみろくの世だ」と言っていますが、まさしくそういうことです。
◆数運はズレている◆
──私は王仁三郎聖師の行動にまとわりつく数運を見て、この人はタダモノではない、と思いました。

 そういう数運に類似しているものは、たとえば経済や政治の世界にもあるのでしょうか?
【藤原】 ええ、ありますよ。金融市場なんかも、数運のようなもので動いています。しかしこの三十年ほどは、数運は崩れています。はっきり出ないようになっている。

 数運が出てしまうと、先回りして行動しますよね。そうするとなかなか改心しないじゃないですか。これとこれを押さえておけばよい、ということになる。当てが外れるということがないと、なかなか気持ちが変わらないと思います。

 予想が当たったら、相場で生きていけばよい、ということになってしまいます。政治も経済も先回りして対応するでしょう。
──数運はある種の予言のようなものですね。
【藤原】 予言に依存してしまうと、改心できません。ある意味「神の恵み」で数運がズレているんだと思います。
◆横型のリーダーシップ◆
──王仁三郎という人は、派手な活動をいろいろしていますが、実は本格的な活動をしたのは、第一次大本事件で投獄され出獄した大正10年(1921年)6月から、昭和10年(1935年)12月8日に第二次事件で捕まるまでの、およそ14年間しかありません。そのわずかな期間に、霊界物語を書いたりモンゴルに行ったり、人類愛善会や宗教聯合会をつくったり、昭和神聖会運動をやったりしたのです。

 その時代というのは世界恐慌(1929年)があって不景気が続いたり、政治が不安定だったりして、ある意味では今の時代と世相が似ているように思いますが、どうでしょう?
【藤原】 まあ似ていると言えば似ていますね。しかし当時と全然違うのは、今は強力なリーダーシップを必要としていないということです。

 当時はヒトラーが出て来たり、日本も軍国主義へと進んで行きました。強力なリーダーシップで統制し、個性を排除して、社会を一つにして行く、そういう力が働いていました。

 今はもう誰か一人が世界を支配するという時代ではありません。
──強いリーダーは必要ない、ということですか?
【藤原】 強さの意味なんですが──ドンとかボスとか、オレが生活の面倒見てやるからついて来い、というようなリーダーシップ、これは「縦型」のリーダーシップです。金とか権力で人を引っ張る。人を道具にする。これが今までのリーダーシップで、こういうリーダーシップは必要とされなくなっています。

 「横型」のリーダーというのは、たとえば王仁三郎聖師が教団の外の人、軍人とか政財界人とか色々な人と付き合った。あれが「横型」のリーダーシップです。同じ目線で人と付き合って行く。支配−被支配の関係ではなく、同じ仲間として付き合う。

 来るのも自由、去るのも自由。でも一緒にやって行こうというのが「横型」のリーダーシップです。

 ですから横型の方が実は強いリーダーシップが必要なんです。縦型の方はそこにブラ下がっていればいいわけですが、横型の方はその気にならないと来ませんから、相当実力がある人でないと務まらないと思います。
──縦型ですと社会のピラミッドの頂点に立つ人が存在しますが、横型の場合にも全体をまとめる人──横型リーダーをまとめ上げる社会全体のリーダーのような人が必要ではないのかと思いますが。
【藤原】 日本の場合、それはなんです。神がやるから、日本は分からない国なんです。

 たとえば能には指揮者がいません。シテ(主役)がいてワキ(脇役)がいて囃子方が4人いて地謡(じうたい)がいて・・・しかし指揮者はいません。みなそれぞれ専門があり、台本の解釈が一人一人異なる。その人たちが舞台で演じる。だから能の舞台は一回一回違うものになってくる。やってみないとどうなるのか分からないのです。神がリーダーシップを取っているわけです。

 アメリカとかイギリスとかは神ではなく「人」です。人が緻密によく考えて、隅々まで頭を働かせて、それで人を引っ張って行く。

 日本ではそういうリーダーが出て来ることはあまりありません。出て来ても、やがて人が離れて行ってしまいます。日本では一人の優れたリーダーが出て来て活躍するのはほんのわずかな時期だけです。

 日本は本当に不思議な国で、実力を持った人たちが活躍しても、最後は神がやるんです。

 ですから日本で一番上のリーダーに求められる力は「神と通ずる力」です。

 それが分からないとリーダーシップを発揮できません。
──なるほど。「一輪の秘密」とか「一厘の仕組」に通じるものがありますね。
【藤原】 神様の内流を受けて、そのままやればいいものの・・・自分の頭で考えてしまい、良いとか悪いとか思ってしまうから、シナリオがうまく進まなくなってしまうのです。かえって苦労することになります。
──それは霊界物語の世界そのものですね。三五教(あなないきょう)の宣伝使たちは救世主神であるスサノオが率いていますが、スサノオが直接指揮命令を下しているのではなく、スサノオはどこにいるのか分からない。姿を見せない。宣伝使たちは神示とか霊夢とかインスピレーションに従って動いて行きます。しかし自分の頭で善し悪しを考えてしまうと道に行き詰まってしまう。直感に従うと、途中で困難があっても、最終的にはうまく行く。
【藤原】 それが日本の姿です。それを外国の人に説明してもなかなか解ってもらえません。

 日本にはすぐれたリーダーがあまりいませんよね?
──そうですね。総理大臣はころころ替わるし(笑)
【藤原】 日本のリーダーシップは──上にいる人が愚かな方が、かえって神様が使いやすいのではないでしょうか(笑) 小賢しいと「我」が出て来るので使いづらい。
──では、リーダー不在の時代とか言われていても、あまり心配する必要はないわけですね。
【藤原】 そうですね。むしろそれが「神劇」なんでしょう。
◆「農」と「農業」◆
──藤原さんは経済アナリストというだけではなく、その他いろいろな活動をされてますが、事務所のある小田原(神奈川県)や遠山郷(長野県飯田市)に農園を開いておられますね。
小田原の農園
↑ 小田原の農園。水田に稲穂がたわわに実っていた(9月1日撮影)
【藤原】 農業は日本で絶対に再建しなくてはいけないことです。しかし農というのは経済の論理にあまり合いません。経済的に農業を成功させようと思ったら大変です。世界中どこでも農業政策で四苦八苦しています。

 「農」は一人一人が自分の生活の中でやるのが基本だと思います。主食の米とかは難しいでしょうけど、野菜とか芋とかは、各自の家庭菜園などでやるのが一番いいと思います。土に触ることで体や精神にも良い効果があるでしょうし。

 そういう新しい農というものを、日本はこれから本格的にやって行くべきです。

 その前段階としてわれわれが今やっているのは、廃耕地だった所を田圃や畑に戻しています。今や環境保全活動の一番いいことは、農作業をやることです。
──なぜ遠山郷を選んだんですか?
【藤原】 私は鉄道が好きでして──遠山郷には昔、トロッコのような森林鉄道が走っていたんです。大学生の時に自転車で初めて遠山郷に行ったんですが、とてもいい所だなと感じました。

 三年前に、全国でロハスで頑張っている所を見学に行くツアーをコーディネートしまして、ぜひ遠山郷に行ってみようと思いました。地元の人に接してみて、これはとても素晴らしいところだと思い、そこに拠点を作ることにしたんです。

 今は月に一回、参加型のツアーを行っています。
──農業はどういうあり方がいいのでしょうか?
【藤原】 「業」としてやるには──家庭料理とレストランの違いと同じで、クオリティが高くないとダメです。あるいは大量に作るとか。

 家庭菜園で農をやるのと、プロとして農業をやるのとは、作る物も作り方も違って来るはずです。

 しかし今の日本の農業は、その境目がはっきりしていません。中途半端です。

 割り切らないといけません。家庭で作る料理とレストランの料理が違うのと同じです。

 家の庭でやる「農」は、生ったものを取って食べればいいですが、「農業」はそれではダメです。必ず生らないと、生活できません。
──各自が家庭で行う「農」と、プロとして行う「農業」の、両方が必要なんですね。
◆最後はインド◆
──霊界物語の第39巻から72巻までは、イランからアフガニスタン、パキスタン、そしてインドにかけての地域が主な舞台になっています。そのうち半分くらいはインドです。救世主神であるスサノオの神様の世界救済計画の中で、「なぜかインドは最後まで手をつけなかった」と書いてあり、それで最後にインドに宣伝使を派遣して救済して行きます。

 これはなぜインドは最後なんだと思いますか?
【藤原】 それは今のインドもそうかも知れません。インドは難しいです。経済でも政治でも何でも難しい。
──未だにカースト制度が根強く残っていますが、国際社会はそれをほったらかしにしているように思います。中国やイスラム諸国の人権問題は非難しても、カースト制度に対する非難はあまり聞きません。
【藤原】 手を出せないのでしょう。

 カースト制度に対してインド人自身が怒り出したら、改革も出来ますが、必ずしもそうではありません。

 インドはヒンズー教の国です。最近では底辺にイスラム教が広がりつつありますが、まだまだみんなヒンズー教の教えの中で生きています。それに国がデカいですから、昔のままの生活で生きている人がたくさんいます。危機感というものがないかも知れません。ある意味では「豊か」な国とも言えます。昨日と同じ生活を今日も明日も続けていられるのですから。

 そうなると気持ちが変わるきっかけが起きません。食えないとか、殺されるとか、そういうことがないとなかなか気持ちが変わりません。

 インドには、何にも動じないたくましさというものがあります。
──それに慣れてしまっている、ということでしょうか?
【藤原】 いや、ものの見方が違うんでしょうね。わたしたちとは違う見方で世界を見ています。

 ですから世界で一番言向け和す(ことむけやわす)のが難しいと言えば、そうなのかも知れません。
──なるほど。霊界物語の通りなんですね。

 藤原さん、今日はどうもありがとうございました!
おわり
小田原の農園
↑ 小田原の農園の一角から小田原の町と海が一望できる
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