左上の書…出口王仁三郎・揮毫「光」(個人所有のものを許可を得て使用しております)

出口汪 『王仁三郎の思想』

【2010/9/9 第5回王仁魂講演会 講演要旨】
出口汪会長 出口 汪(でぐち ひろし)

王仁魂復活プロジェクト会長。

1955年 生まれ。
株式会社 水王舎 取締役会長。
株式会社ディーズプロ 代表取締役、東進衛星予備校講師。現代文指導の第一人者として有名。

オフィシャルサイト「出口汪.com
  • 出口王仁三郎は宗教家だが「宗教のない世の中がみろくの世だ」と言っている。変な宗教家だ。僕は信仰心はあるが、宗教はあまり好きではない。それは自分の生い立ちも関係しているかも知れない。
  • 僕は出口王仁三郎の曾孫として生まれた。父は『大地の母』という本(大本初期の歴史を綴った小説)を書いた。膨大な資料を調べ、徹底的に取材して書いた本である。執筆に集中できるように、僕が中学一年の時に名古屋から亀岡に引っ越した。父母は子供たちを祖父母に任せ、倉の中に籠もって執筆を続けた。
  • 祖母にとても可愛がられた。祖母は王仁三郎の娘(第三女)である。まわりから特別扱いされていたからか、とてもわがままな人だった。それに対して祖父は、とても我慢強い人だった。王仁三郎の弟子であり、第二次大本事件の時には王仁三郎と共に獄中に6年8ヶ月入っていた。僕が子供の頃は「大本総長」という役職に就いており、ほとんど家におらず、平和運動や教団の活動をしていた。そういう祖父母に育てられた。余談だが祖父は3月3日生まれ、祖母は5月5日生まれである。
  • こういう環境で育ったためか、僕は勉強をしたことがない。高校時代も授業を受けた記憶がない。教科書はもらって一週間くらいでなくしてしまうので、学校ではたいていボーッとして妄想していた。そのため大学受験も失敗して三浪した。大学に行っても勉強しなかった。そんな自分がなぜ予備校で講義をするようになったのかとても不思議である。
  • 自分は、国語であろうが他の学問であろうが、他人に教えられたことがない。全部自分で考えた。現代文は当時、「センス」や「感覚」が重視されており、勉強しても伸びるものではないと思われていた。予備校で教えることになったが、そもそも自分で勉強したことがないので、どう教えていいか分からない。そこで自分なりに考えた。たとえば、文章というものは不特定多数の人に読んでもらうために書いたものであるから、当然筋道を立てて書いてあるはずだ。ならばその論理を追っていけばうまく行くのではないか。──仮説を立て、検証し、いろいろ試行錯誤しながら勉強の方法を考えて行き、ラジオ講座とか本を書いたら、それが売れてしまった。
  • 宗教とは無縁どころか、全く正反対の「論理」ということを一筋に仕事をしてきた。それが王仁三郎に対する新しいアプローチになるのではないのか、と今は思っている。
  • 王仁三郎の子孫として生まれ、王仁三郎を神様として拝まなければいけない家庭環境で育ち、信者さんからは特別視されたきた。それが嫌で嫌で仕方がなく、少しずつ距離を置き、王仁三郎とは一切無関係な世界で生きていこうと思った。
  • そうやって生きて来たが、今55歳になり、自分なりに王仁三郎を確かめたいと思うようになった。一切の固定概念をなくして、自分の頭でしっかりと、自分なりに考え、理解したことを表現したいと思う。
  • 人間には「悟性」がある。誰でも冷静に考えれば、何が正しくて何が間違っているか分かるはず。しかし分からないのは、固定概念や欲望などで、ものが見えなくなってしまっているから。自分の中の悟性と対話する形で、王仁三郎を見てみたい。
  • 霊能者は霊が見える。しかし自分は見えない。だから霊能者が言うことを一方的に信じるしかない。あとは「信じる者は救われる」ということになる。こちらは見えないのだから、見える人の言うことを信じるか信じないか、という問題で終わってしまう。
  • 臨死体験をした人が見た“死後の世界”には共通点がある。しかし臨死体験者は、三途の川を引き返して、こちらの世界に戻って来られた人。霊界の入り口しか見ていないのに、霊界全体を語るのは少々無理があるのではないか。
  • 釈迦やイエスが語ったことはレトリックである。その時代の人に分かるようなレトリックで語った。しかしそれを聞いた人は、そのレトリックが絶対だと思ってしまう。疑いもなく信じてしまうと、自分でものを見なくなってしまう。その結果、悟性が曇ってしまうのではないか? 僕は決して宗教を否定しているわけではない。しかし今の自分としては、固定概念を外して、一つ一つものを見て行きたい。確かめて行きたい。
  • 自分たちが見たもの、語ったものだけが絶対で正しくて、他は間違いであり、排除して、そうやって殺し合いをして来たのが人類の歴史。苫米地英人・著『なぜ、脳は神を創ったのか?』(フォレスト新書)で、著者は「すべては脳がつくった妄想」だと言い切ったが、実に爽やかだと思う。そこから本当のスピリチュアルな世界が始まるのではないのだろうか?
  • 王仁三郎を宗教という枠から取り外してみたい。すると色々な王仁三郎が出て来ると思う。
  • 霊界物語の第9巻第10章で、五月姫(さつきひめ)が歌を歌う。
    ふげば高し天の原
    行き渡らふ日の神の
    づの都の守護神(まもりがみ)
    にしの糸に繋がれて
    しの衾(ふすま)の永久(とこしへ)に
    はらざらまし何時までも
    よく正しき相生の
    にの護りと現はれて
    しき卑しき曲津見(まがつみ)を
    らしてここに神の国
    というように、「あいうえお」から「わゐうゑを」まで、その言葉で始まる歌を王仁三郎は詠んでいる。これを、あれこれ考えながら詠んだのではなく、寝転がって次々に詠んで行った。果たしてこういうことが人間に出来るのだろうか? 王仁三郎自身は肉体を持った人間だろうが、そこに付いている存在は一体何だろうか? 神か悪魔か何なのかは分からないが、その正体を突き止めたいと思っている。
  • 王仁三郎は、神とは「万物普遍の霊」だと言った。すべてのものの中に神がいる。しかも「普遍」、永遠にいる。その神とは「霊」である。霊は形を持っていない。われわれの中にもいる。これは今までの宗教がひっくり返ってしまうような、かなりすごいことを言っているように思う。
  • 霊が入っているから変化する。春夏秋冬、絶えず宇宙は変化する。霊が抜けてしまったら、腐って朽ち果てて滅びて行く。霊とは、宇宙に漲っている無限のエネルギー。万物が変化して行く、その根底にあるものは霊であって、霊が抜けたらエネルギーはなくなり、動かなくなる。…そのように考えて行くと、論理的にも、すごくよく分かる。これは「信じる者は救われる」ではなく「仮説を立てる」ということ。
  • 「妄信」は一見、純粋な信仰心なのかも知れないが、一歩間違うと非常に恐い。狂信的になってしまう。精神世界への関心が強まるにつれ、それに比例して、そういう恐さも強くなってくるのではないのだろうか。
  • 神は「万物普遍の霊」、ならば人間は何か。人は「天地経綸の主体」と王仁三郎は言っている。人間は天地を司る主体である。この言葉にショックを受けた。論理的に納得できた。──神は霊。霊はエネルギー体なので、形を持っていない。神は無力である。形を持っていないから、この現実世界では何一つできない。神はマジック一本動かせない。動かせるのは形(肉体)を持っている人間である。ものを生み育むエネルギーを、神の愛と言うのではないのか。
  • 神の愛が、ものを生み育むエネルギーだとするならば、神は自分の代わりとして人間をつくるだろう。僕が神ならそうする。他の生き物と人間との違いは、人間はものを生み育てることが出来る。いろいろなモノをつくったり、芸術をやったり、人を愛したり。それはまさに神の霊を与えられ、神の代わりとして現実世界でそれをおこなっているからではないか。
  • 言葉を使わずに、ものを考えることは出来ない。その状態をカオス(渾沌)と言う。聖書では、天と地が分かれていない状態である。「はじめに言葉あり。言葉は神なり」。人間が言葉を持った瞬間、天と地が分かれた。言葉が世界を生んだ。これは言語学では「言語創造」と呼ぶ。
  • 王仁三郎は宇宙の始まりを「幽の幽」と呼んだ。幽とは形のない世界。そこには無限のエネルギーだけがあった。神はそこから「幽の顕」の世界を顕した。形のないところから、形はないが何かがある世界を生み出した。たとえば「リンゴ」という言葉を用いてリンゴのイメージを思い浮かべてみよう。それが「幽の顕」である。では言葉を用いずにリンゴのイメージを浮かべることができるだろうか。──それは難しい。言葉で物質世界をつくることは出来ないが、「幽の顕」の世界ならつくれる。それが「想念」ではないのか。
  • 神が「幽」の世界(幽の幽、幽の顕)でやろうとしていることを、肉体を持っている人間は「顕」の世界(顕の幽、顕の顕)でやろうとしているのではないか。そのように考えたときに、「人は天地経綸の主体」という王仁三郎の言葉が少しだけ分かった気がした。王仁三郎が言っていることはとても論理的だと思った。
  • 言葉を習熟してゆくと感性になり、言葉を法則に従って使ってゆくと論理になる。人間は世界のあらゆるものを一旦言語に置き換えて、世界を感じている。スピリチュアルを論理的に・・・というのは変に思われるかも知れないが、目に見えない世界というのは、仮説を立てて説明するしかないと僕は思う。仮説を立てて色々な現象を説明してみると、うまく行くのではないのかと思う。僕の中では仮説を立ててみて、他の宗教よりも王仁三郎が言っていることが一番納得がゆくものだった。
  • 先ほどの歌の例もあるが、王仁三郎という人は、ふつうの人間では出来ないようなことをたくさんやっている。こんなおもしろいものをほったらかしにしていたらもったいない。色々な人が集まって、王仁三郎を発見し、楽しんでいけたらいいなと思う。
(終わり)
プリンタ用画面
(C)2010-2011 王仁魂復活プロジェクト