左上の書…出口王仁三郎・揮毫「光」(個人所有のものを許可を得て使用しております)

(2010年10月吉日、インタビュアー・飯塚弘明)
──王仁魂インタビュー7回目の今回は、環境音楽家の小久保隆さんにお話をうかがいます。
 小久保さん、よろしくお願いいたします。
【小久保】 よろしくお願いいたします。
環境音楽家 小久保隆さん
【小久保隆さんのプロフィール】
○環境音楽家、音環境デザイナー、株式会社スタジオ・イオン代表取締役
○1956年3月3日、東京生まれ。
○70年代後半から80年代にかけてバッハ・リボリューション、新月、ツトム・ヤマシタ氏、坂本龍一氏らと音楽活動を行う。
○その後、自然が持つ人の心を癒す力に注目し、現代人の心に優しく響くリラクゼーションミュージックを作曲している。
○これまでに、NTT docomoのユニバーサルショップ「ハーティプラザ」の誘導音、「六本木ヒルズ アリーナ」の環境音楽、「クイーンズスクエア横浜」モール内の音環境デザイン及び時報音楽、東京都渋谷駅前「ハチ公ファミリー」の時報音楽などを手がけている。
○2005年には愛知万博「愛・地球博」内の「ワンダーホイール展・覧・車」の音楽も担当した。また、2006年には「ケータイクレジットiD」の決済音を制作。
○それら都市・オフィス・ミュージアム等のパブリックな空間を「音(音楽)で環境デザインする」サウンドデザイナーとして活躍する傍ら、プライベート空間にも癒しの音楽を提供するアーティストとしても活動をしている。
○1999年には独自のレーベル「イオンレーベル」を立ち上げ、現在までに23タイトルをリリース。なかでも「風の詩」「水の詩」はロングヒットを続け、07年にはベストアルバム「Quiet Comfort」が発売された。
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──小久保さんは環境音楽の仕事をされていますが、「環境音楽」とはどういう音楽なのでしょうか。
【小久保】 ふつう皆さんが聞いている音楽は観賞用の音楽です。ベートーベンであったりビートルズであったり流行曲であったり。それらは聞こうとする態度があって聞く音楽です。それを聞いて楽しんだり感動したりするという、観賞するための音楽です。

 それに対して環境音楽というのは、鑑賞することを前提としない音楽、聞くことを強いない音楽です。その人の「環境」となっている音楽なので環境音楽と呼んでいます。

 たとえば観葉植物は、見て美しいと感じるものではありません。ランの花が飾ってあったら美しいと感じますが、それが観賞用の在り方です。それに対して観葉植物は美しいと感じるものではありませんが、それが存在することによって部屋の中が何か良い空間になる。そういう在り方の音楽が環境音楽です。
──なぜ環境音楽家になられたのでしょうか?
【小久保】 音楽は小さい時から好きでした。高校生になってロックに目覚めました。

 1971年に芦ノ湖で伝説の野外コンサート「箱根アフロディーテ」が開かれ、友人に誘われて行ったんです。イギリスのピンク・フロイドというバンドが出ていたんですが、それまでクラシックとか大人しい音楽しか知らなかった僕はとても刺激を受け、自分でもロックバンドをつくるほど夢中になりました。

 ロックと言っても僕が好きだったのはピンク・フロイドとかエマーソン・レイク&パーマーなどの、プログレッシブ・ロックというジャンルです。ロックのビート感はあるんですが、ちょっと知的で、楽曲的に複雑な構成をもっています。たとえば、ふつう4拍子のものをわざと8分の7拍子にしてみたり・・・そういう複雑なことをやるような音楽です。

 高校2年生の時にシンセサイザーに出会いました。それまでの音楽は、楽器が持っている音色にとらわれているような面があったと思います。しかしシンセサイザーは電気で音楽を作るため、音色の幅を無限に広げました。今までになかったような音を作ることができて、それがとても面白く、はまって行きました。

 大学では音楽をやろうと思っていたんですが、音楽の大学ではなくて電気の大学へ進みました。エレクトロニクスで音楽を表現しようと思ったんです。

 学生時代もずっとプログレッシブ・ロックをやっていて、ほとんど勉強しないで音楽に没頭していました(笑)

 とりあえず大学院に進みましたが、親を説得して中退し、プロの道へ進んで行きました。シンセサイザーが扱えるということで、学生時代から仕事があり、それなりの収入があったんです。
──小久保さんは大学在学中の1980年にキングレコードからソロアルバム『デジタルバッハ』をリリースしていますが、これはどういう曲なんでしょうか?
【小久保】 デジタル技術を駆使してバッハを現代に甦らせる、というようなアルバムです。現代にバッハが生きていたらこういう音世界を作るだろう──と考えて作りました。
──それはおもしろそうですね。
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──その後どういう経緯で環境音楽へ入って行ったのですか?
小久保さん
都内の小久保さんのオフィスでインタビューをさせていただいた。
【小久保】 ロックの世界はどんどんどんどん過激になって行き、どうすれば刺激を得られるか、一瞬で恍惚感に浸れるか──足し算というか、エネルギーが大きく大きくなる、そういう方向で進んで行きました。

 僕はシンセサイザーが使えるミュージシャンだったんですが、YMOが有名になると、ああいうピコピコサウンド的な楽曲を作ってくれという依頼が来るようになり、仕事として引き受けていました。

 ビジネスとしては成功していたんですが、電子音の刺激の中で仕事をしてゆくうちに──何かが違う。自分が思っている音楽の在り方、自分の魂が喜ぶ音楽とは違う。違う違うという内側からの声にやられてしまい、自分の音楽を見つめるというワークに入って行きました。

 その頃、オーストラリアのフェアライト社のCMI(コンピューター・ミュージック・インストルメント)という楽器を買いました。これのすごいところは、キーボードで弾いた音が、すぐにテレビの画面に出て来るんです。今はパソコンとキーボードを組み合わせれば簡単にできるんですが、その頃はまだありませんでした。

 CMIは高くて月賦で買いました。たしか1500万円くらいしました。

 それを持っている人は日本で10人くらいしかおらず、持っているだけで仕事がくるという、シンセサイザーをやっている人のステータスシンボルだったんです。

 絵を描くときに、ちょっと描いて、離れて見て、修正して、またながめてみて・・・というような作業が、音楽でも、CMIでできるようになりました。

 そこで、自分の魂が喜ぶ音楽というのはどういうものなのか──ということを試行錯誤してやって行ったんです。

 必要のない音を省き、引き算してゆき、一番ミニマムな状態でどこまで自分の思いを伝えることができるのか。

 僕は「二小節間の美学」と呼んでいたんですが、二小節の繰り返しだけで何を伝えることができるか、どこまで伝えることができるか、そういうやり方で楽曲を作りました。ふつうはたった二小節の繰り返しだとイライラするような音楽になってしまいますが、そうならずに作るには一つ一つの音に魂がこもっていないといけません。

 その集大成として1985年に『バウハウスの詩人たち』というアルバムを出しました(キングレコード)。

 自分にとっての環境音楽の在り方は、多分ここから始まったんだろうと思います。

 当時はまだ環境音楽という言葉はなかったんですが、自分の魂が喜ぶ音楽の方向がはっきりして来ました。

 その後、ブライアン・イーノというイギリスのミュージシャンが似たような音楽を「アンビエント・ミュージック」と呼んでいたことを知り、日本語に訳すと「環境音楽」になるのかな・・・ということで環境音楽と呼ぶようになりました。
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【小久保】 もう一つターニングポイントになる出来事があります。

 僕はアレルギー体質で、花粉症という言葉がない時代から花粉症でした。それが遺伝したのか子供がぜんそくを持っており、病気を治すにはどうしたらいいのかあれこれ考え・・・なるべく自然の中に入るようにしました。

 そのことが、ちょうど僕が「自分探し」をして環境音楽へと移行して行く時期とシンクロしています。

 自然の中に身を置いて、鳥の声や木の葉がこすれる音など聞いていると、とても気持ちがよく・・・CMIで自分探しをしているのと同じ状態に森が持って行ってくれるのです。

 音楽で求めていたことの一つの答えがここにあるな、と思いました。

 鳥の声を聞いて気持ちよくなっている自分と、CMIで「二小節間の美学」の音楽を作って気持ちよくなっている自分は同じ状態になっている。自然の音も音楽なんだ・・・と思ったのです。

 水のせせらぎの音や鳥が啼いている音も、音譜に乗った楽音も同じじゃないか。それをトータルして一番気持ちのいい状態を作れるんじゃないのか──ということで、シンセサイザーの音楽と、自然の音をミックスしたものを作るようになったんです。

 環境デザイン、空間デザインの要素の一つとして、自然と音を組み合わせてデザインするということをやったのは、多分僕が最初ではないかと思います。
──小久保さんは環境音楽の元祖か本家のような人なんですね。
 環境音楽が市民権を得るようになったのはいつ頃なんでしょうか?
【小久保】 日本だと、坂本龍一の『エナジー・フロー』(1999年)が癒し系とか言われて有名になりましたが、その頃から自分の音楽も他人から認められるようになって来ました。環境音楽がビジネスとして成り立つようになったのは、それ以降のことです。
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──王仁魂復活プロジェクト特製の王仁三郎実声言霊CDは小久保さんが製作されましたが、どのような経緯で作ることになったのでしょうか?
サイバー君
立体的に音が録音できるサイバー君。自然の音の収録のため訪れた国は45ヶ国を超えるという。
【小久保】 自然の音を録音するためにサイバー・フォニック(愛称サイバー君、右の写真)という録音機を使っています。人間が聞くのと同じように立体的に録音ができる装置です。これは僕が開発したんですが、特許を取った方がいいと人に勧められて、紹介していただいたのがメキキ・クリエイツ株式会社の出口光さん(同社代表取締役)だったんです。

 そのようなご縁があって、光さんから、王仁三郎が吹き込んだレコードをCD化したいので誰か紹介してくれないかと相談を受けました。

 アナログのレコードをデジタルにしてノイズを取る。そういう作業が日本で一番よくできるのはおそらく自分だろうな・・・と思いまして、それで引き受けることにしたのです。
──製作にはずいぶん苦労をされたそうですね。
【小久保】 まずレコードをデジタル信号に置き換える必要がありますが、これは信頼できる専門業者に依頼しました。

 そのデータをデジタル処理するため、自分のコンピューターで作業をやり始めようとしたら──その時、なんとコンピューターが動かなくなってしまったのです。

 大事なデータが入っているハードディスクが動かなくなってしまいました。マシントラブルには十分注意していたのですが、まさかと思うようなトラブルに見舞われてしまったのです。

 僕は学生時代から王仁三郎という人がいたことを知っていましたが、特別に王仁三郎フリークというわけではありません。しかし心の片隅にずっと王仁三郎はいたので、光さんからCD化の話を聞いたときに、これはぜひ僕がやろうと思ったのです。ですが、ふつうの仕事を引き受けるような感覚ではできませんでした。やらせていただく、という感覚です。

 ですからまず、この仕事ができる自分をつくろうという考えがありました。神社にお参りする前に禊をする、というようなかんじで、まず心をきれいにして、それから、さあ、やろうとしたら、このマシントラブルです。

 コンピューターなどデジタル機器は僕にとってパートナーであり、自分の一部です。自分の心が整理整頓されていなかったように、こいつらも整理整頓されていなかったんだなあ、と思いました。

 この状態でこの仕事はしてはいけなかったんですね。自分の心を整理整頓するだけでなく、コンピューターも全部きれいにして取りかからなくてはいけなかったんです。

 ハードディスクを交換して、データを復旧させるのに3ヶ月ほどかかりました。

 でもこれでようやく潔斎ができて、作業に取りかかれる状態になれました。
──復旧に3ヶ月も? すごいトラブルでしたね。
 その後の作業は順調に行ったんですか?
【小久保】 いいえ。最初思い描いていたデジタル処理の方法では、納得のいくものが作れませんでした。

 データを聴いてみると、たしかにプツンとかシャーとかいうノイズは減ってるんですが、王仁三郎の声が持っているエネルギー、それを仮に音霊(おとたま)と呼ぶなら──言霊(ことたま)というのとはちょっと違うと思うので──ノイズが減った分、その音霊のエネルギーまで減ってしまったようなかんじでした。

 他の方法も色々試してみましたが、どれをやっても納得いくものが作れませんでした。

 最終的には、手作業で一つ一つの波形を見ながら処理して行くことにしました。

 1秒間に44100個の波形があるんですが、コンピューターの画面で一度に見られるのは200個くらいです。100分の1秒すらないデータを見て波形を処理する、それを繰り返して行く作業でした。
──気の遠くなるような地道な作業ですね。私も霊界物語の電子テキスト化をした時には、文字を一文字一文字見比べて校正するという気の遠くなる作業を経験しましたが、それを思い出します。

 マシンが復旧した後は、作業はどのくらいの時間がかかりましたか?
【小久保】 うーん・・・9ヶ月くらいかかりましたね。結局レコードを預かってから一年かかってようやくCDが完成しました。

 王仁魂復活プロジェクトの創立パーティー(5月7日)の少し前に完成しました。

 ノイズの他にも、王仁三郎の声が実際の声よりカン高いという指摘があり、これも含めて調整しました。

 ハムノイズ(電源周波数に準じた雑音)の60ヘルツの音を探して見つけるというサイエンティフィックなやり方の他に、全然サイエンティフィックじゃありませんが、何か、ここだな、と思うポイントが見つかりました。これは説明不可能ですが、何か自分的に腑に落ちるポイントがあったんです。実際に王仁三郎の実声を聞いたことのある方にデータを聴いていただいて完成させました。

 それでも王仁三郎の声は高いですよね。祝詞の声も歌声も高いです。

 スピリチュアル・リーダーというのは声が高い人が多いのではないのかと思います。
──CD自体もプレスではなくて特別な方法で作られたそうですね?
【小久保】 ふつうのオーディオCDはプレスという印刷のような方法で作られますが、実はCD-Rで焼いた方が音の再現性は高いんです。

 ですから一枚一枚、特別なCD-Rで焼いて作りました。
──かなりの手間がかかっているんですね。
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──小久保さんにとって出口王仁三郎はどういう存在でしょうか?
水の化身
王仁魂ムービーに小久保さんの音楽を使わせていただいている。
【小久保】 いつも横にいてくれている──そういうかんじがします。

 王仁三郎という人はとても魅力的な人です。声とか歌を聴いて思うのは──とてもポップな感覚を持っている人で、今もし生きていたらJ-Popのヒット曲を作れてしまうような人ではないのかなと思います。

 ああいうレコードを吹き込んだり、演劇をやったりというのは、あの当時のポップなことだったんだと思うんです。

 そういう感覚を持ちながら、宇宙につながっている太いものも持っているというダイナミズムがすごいなーと思います。

 僕はいつも思っていることは──昔の人の色々なことを学んで行く一方で、この時代の新しい存在でありたいし、次を築いていく存在でありたいと思っています。

 王仁三郎という人は、しっかりと過去・現在・未来を見据えていて、色々なことをやって行ったんだと思います。それは自分も共鳴できるところですし、自分の生き方としてもそうありたいと思います。

 ある深い瞑想をしたときに、天国とはこういうところなんだというつかみをしたことがありました。

 今ユビキタスという言葉がよく使われています。「いつでも、どこでも、だれでも」というやつです。

 僕が見た天国というのはユビキタスなんです。あの人としゃべりたいなと思うとすぐにその人としゃべることができる。「いつでも、どこでも、だれでも」コミュニケーションがとれる。
──霊界は意志想念の世界だと王仁三郎は言っています。会いたいと思っただけでその人が目の前に現れる。まさしくユビキタスですね。
【小久保】 今この地上の世界は、そういう世界に向かって進んでいるんだなと思います。インターネットの普及などで、天国の方に向かってどんどん進化している。王仁三郎はその世界が見えていたんだなと思います。
──それがきっと「みろくの世」なんでしょうね。

 小久保さん、本日はどうもありがとうございました。
おわり
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