左上の書…出口王仁三郎・揮毫「光」(個人所有のものを許可を得て使用しております)

2011年 節分・丹波 神秘の旅 (前編)

(記・飯塚弘明)
 毎年2月3日は大本で節分大祭という祭典が開かれます。

 明治25年(1892年)2月3日に出口直に艮の金神という神様が懸かり、新しい時代の到来を告げるメッセージを発して大本が開教しました。

 節分大祭とはこの開教を記念する祭典であり、また全大宇宙から個人まで一切を祓い清める潔斎の神事でもあります。

 今年(2011年)の2月3日は旧暦だとちょうど1月1日に当たります。新しい年のスタートの日です。

 王仁魂復活プロジェクトでは2月3日・4日の2日間のスケジュールで、綾部・亀岡の二大聖地に参拝し、節分大祭に参列し、そして丹波の神秘スポットをめぐる旅を企画しました。
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 2月3日(木)10時半に京都駅に集合。マイクロバスに乗って亀岡に向かいます。

 まず驚いたことは運転手さんを含めて一行18人になったこと。3×6(みろく)の人数です。実は最初は人数が少なくて10人ちょっとのツアーになるかなと思っていたんですが、直前になって何人かの参加がパタパタパタと決まり、最終的にこの人数になりました。

 次に驚いたのはチャーターしたバスのナンバーが「369」(みろく)だったこと。バス会社に「わざわざ配慮してもらってすみませんね〜」て電話したら「はあー??」と言っていたので、全く知らなかったようです。

 冷めた目で見たら、「たまたま偶然でそういう数字になっただけなのに、何いちいち驚いてるんだ?」てことになりますが、王仁三郎の身辺にはそういう数字の語呂合わせが、た〜くさん、まつわり着いてますよね。たとえば昭和3年3月3日(旧2月12日)にちょうど56歳7ヶ月になったとか、これから向かう亀岡の聖地・天恩郷の位置が、東経135度35分、北緯35度に位置しているとか。

 3は変性女子・瑞の御魂を象徴する数字ですし、567は言わずと知れた「みろく」、35は「三五教」と書いて「あなないきょう」と読ませますが、瑞(三、水)と厳(五、火)を合わせた数字であり、霊界物語で救世主スサノオが導く宗教の名前でもあります。

 ちなみに亀岡や綾部では「567」とか「712」(王仁三郎の誕生日)というナンバーの車をよく見かけますが、これは意図的に取得したものと思われます。もちろん偶然そうなった場合もあるでしょう。
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 さて、一行は亀岡の聖地 天恩郷(写真左)を参拝し、霊場 高熊山(写真右)を登拝した後、綾部に向かいました。

 大本には亀岡と綾部にそれぞれ聖地がありますが、綾部の聖地 梅松苑で節分大祭が行われます。

 節分大祭は夜通し行われる特殊な神事です。

 すっかり暗くなった7時頃から祭典が行われ、全部終了するのは明け方4時過ぎという、たいへん長い時間がかかる神事です。

 その間何をしているのかというと、参拝者は神言(かみごと)という祝詞を延々と唱え続けます。

 祭員は人型(ひとがた)と呼ばれる和紙に書かれた名前を延々と読み続けて素焼きの壺に入れます。

 事前に何ヶ月も前から、信徒やご縁のある人に、自分や家族の住所・名前を人型に書いてもらって集めてあるので、何十万枚だか何百万枚だかあるのです。

 この人型を人間の身代わりとして、川に流して、罪穢れを祓い清めるという神事です。

 その部分だけ見たら、神社で6月末と12月末に行われる大祓式(おおはらえしき)とたいして違いはないのですが、人の潔斎だけではなく、小潔斎、中潔斎、大潔斎( 人、町・国、宇宙の潔斎)という意味があります。

 またそれを2月3日の節分の行事として行い、そして太古の神代の時代に艮の方角に押し込められてしまった国祖 国常立尊の復権・再現を記念・祈願する祭典でもあるのが、大本節分大祭の特徴です。

 祭員だけで何百人もいて、参拝者も何千人いるのかよく分かりません。そして、明治時代から続くこの神事は綾部市の冬の風物詩となっていますので、市民もみな出歩いています。いつもは夜7時を過ぎると人がほとんどいなくなる町ですが、この日は夜遅くまで賑やかです。

 祭典のクライマックスが11時と2時半頃の2回あります。綾部の聖地・梅松苑のすぐ横を流れる由良川(和知川とも呼ぶ)に架かる綾部大橋の上から、この人型を川に流すのです(左の写真)。

 昔は全部川に流していましたが、現在は環境保護のため、ほんの一部だけ流して、残りは火で燃やしているようです。  神言は一回唱えるのに7〜8分かかるので、終わりまでにおそらく4〜500回唱えることになるのではないでしょうか?

 もちろん祭員は交替で休憩を取りますし、参拝者も屋台で食事したり、仮眠したりして、人それぞれ思い思いに神言を唱え続けます。

 私たちは次の日の予定があるので、1回目の人型流しが終わった後ホテルに帰りました。
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 翌朝は、まず奥都城(おくつき)を参拝。

 出口直、王仁三郎の二人の教祖を始め、歴代教主のお墓があります。

 その周辺は信徒のお墓、それに綾部市民の霊園にもなっています。

 合気道を開いた植芝盛平さんが建立した植芝家のお墓もここにあります。

 盛平さんは王仁三郎の直弟子の一人です。「合気道は無抵抗主義だ」と盛平さんが言っていますが、その無抵抗主義とは霊界物語で王仁三郎が示している無抵抗主義のことに他なりません。王仁三郎の教えを武道にしたものが合気道だと言えます。

 そんな盛平さんですが、本人のお墓は和歌山県田辺市の高山寺というお寺にあり、こちらには分骨がされているようです。
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 綾部を発って福知山(ふくちやま)へ。

 目指すは元伊勢皇大神社(もといせこうたいじんじゃ)です。

 三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮は皇祖神 天照大御神を祭る日本神社界の総宗家ですが、元々は皇居の中に祭られていたって知ってましたか?

 もう一柱、別の神様と一緒に皇居内に祭っていたところ、二人の仲が悪くて?京の町に疫病が襲いかかったため、皇居の外に出して別々に祭ることにしたと、日本書紀の崇神天皇6年のところに書いてあります。

 それが今の伊勢神宮(の内宮)と、倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を祭る大和神社(おおやまとじんじゃ)(奈良県天理市)です。

 天照大御神を祭るお宮は何十箇所か場所を転々とした後、最終的に今の伊勢に鎮座したんですが、それ以前に鎮座していた場所を「元伊勢」と呼びます。

 丹波地方にも何ヶ所か「元伊勢」がありますが、一番有名な元伊勢は、天の橋立の近くにある籠神社(このじんじゃ)です。

 しかし王仁三郎は霊界物語の中で、大江山の近くにある皇大神社が伊勢神宮の起源であると書いています(霊界物語16巻16章)。

 そんなわけで、まずは皇大神社に行ってみることにしました。

 (続く)
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