歌祭りということについて一言申しあげます。日本の和歌の道、すなわち敷島の道のはじまりというのは、素盞嗚尊(すさのをのみこと)が出雲の簸(ひ)の川の川上で八岐(やまた)の大蛇(おろち)を退治されて、ほっと一息おつきなされた。その時に、お祝いとして詠まれた歌が「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」の歌であります。
このお歌の意味は、言霊(ことたま)によって解釈すると、「出雲八重垣」の「出雲」というのは「いづくも」のこと、「どこの国も」ということでありますが、つまり、大蛇は退治したけれども、まだ世界各国には八重垣(やえがき)が築かれ、そして八雲(やくも)が立ち昇っている。「八雲」というのは「いやくも」ということである──。それで、この「いやくも」をすっかりはらわねばならぬし、また、この垣も払わねばならぬ。
今日も「八重垣」はたくさんあります。日本の物を外国に持ってゆこうと思えば、「税関」という八重垣ができている。「つまごみに」というのは──日本の国は「秀妻(ほつま)の国」というのである──日本の国もまた一緒になって八重垣をつくっているということであって、これは世界万民が一つになって、一天、一地、一君の政治にならなくては、この八重垣は取り払われないのであり、「八雲」を払い、「八重垣」を取り払って、はじめて一天、一地、一君の世界になるのであります。
これが一つの意味でありますが、もう一つの意味があります。神さまがお鎮まりになっているその神さまを中心として「八重垣」を築く。その「八重垣」は「瑞垣(みづがき)」という意味になり、外から悪魔が入れない。ここでは神さまを守る「ひもろぎ」となるのであります。八重雲(八雲)も、幾重にも紫雲がたなびいている意味にもなるし、また、真っ黒な雲が二重にも三重にも包囲しているという意味にもなるのであります。
それで、この歌は、「八重垣作るその八重垣を」で切れていて、あとがまだ残っているのであります。
内外を問わず悪い「その八重垣を」今度は取り払わねばならぬということを残して、「を」の字でおさまっているのであります。
そこで、仁徳天皇の御宇までの古典を調べますと、「歌垣に立つ」ということが、時々見当たるのであります。
「何々の皇子(みこ)歌垣に立たせ給うて詠(うた)い給わく……」とある。
「歌垣」というのは、歌を書いて、それを垣にしてあるもので、今日のこれ(歌垣を示され)がそれであります。
それで歌祭りというのは、この歌垣を中心として、自分の村々で年に一遍ずつ行なったのであります。
そうして、平素からの村人間の怨み、妬み、または一家のもめごと、夫婦喧嘩とか、そうした村内における今までのいざこざを、この歌祭りによって、神さまの御心(みこころ)を和めるとともに、村人の心持ちをも和め、一切の罪悪を払うてしまう、つまり八重雲を払うてしまうという平和な祭りであります。
その祭りによってすべてが流れ、河で尻を洗うたように綺麗になるのであります。
また、若き男女にいたしましても、昔は自由結婚でありました。
それで、歌祭りの時に、一方の男から、思う女に歌いかける。それが嫌だったら女は歌い返さない。この人と思ったら歌い返すのであります。
この言霊ということは、「真言(まこと)」とも書くのであって、真言ということは、言うたことは一切違えないということであります。つまり一切嘘は言わないことが真言であり、言霊であります。
── 一言いえば、それは違えさせられない。それで、一度、歌によって歌を返したならば、その女は一生涯、その人の妻になったことになったのであります。
その場所で一言いうたら、それで一切は決まったものであります。
また今までのいざこざも、歌祭りに列して歌を献上した以上は、それですっくりと流れたのであります。
しかしながら、この歌祭りも、源頼朝が鎌倉に幕府を開き武家の世になってからは、絶えてしまって、宮中に歌会が残っていたくらいなものであったのであります。
それから、あの定家卿が、はじめて小倉山の二尊院というところで歌祭りをされた。その時には、故人の歌も新しい人の歌も集めて、その中から百首選んだのが百人一首となったのであります。
しかし、定家卿のやられたのは、山城の国の小倉山という小暗い山であったが、今日の歌祭りは、明光殿という、明らかに光っている御殿で、処も花明山(かめやま)という明らかな山であります。(注・花明山は亀岡の古称「亀山」に由来し、天恩郷の中の小高くなっている小山のこと。明光殿は戦前そこに建っていた神殿)
この花明山の明光殿において歌祭りが行なわれたのでありますから、すべて会員および皇大神(すめおおかみ)(注・皇大神は大本の奉斎主神の神名)を奉斎する諸氏は、今日限り、いかなるもつれがあっても、何があっても、この祭りに列した以上は、すっかり河に流さんと、神さまのご神罰があたることになっているのであります。
私は、古典の中に「歌垣の中に立たせ給う」とたくさんあることについて、どこの国学者に聞いても判らなかったのでありますが、その時に、今日はもう故人になられましたけれども、私の二十三歳の時に、歌をはじめて教えてくれました岡田惟平(これひら)翁という国学者があったのであります。その人に、歌垣の作り方から、つぶさに、こういう具合にして祭り、また、こういう歴史があるものだと聞かされたのであります。
その後一遍、どうかして歌祭りをしたいと思っておりましたが、本日ここにめでたく行なうことができました。この集まった歌の中から、百人一首をこしらえる考えであります。一回ではとても百人一首はできないから、年を重ねて百人一首をつくり、後世に残る、小倉山百人一首ではなくて花明山百人一首をこしらえたいと思っているのであります。
それから今、弓太鼓(ゆみだいこ)をトントンと叩きましたが、これは、素盞嗚尊が須賀宮(すがのみや)(注・出雲の須賀の地に建てた宮殿。現在の八雲山の山頂にあった)にお入りになって、この大海原(おおうなばら)、すなわち地上世界を全部治めらるる処の責任を伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)(注・スサノオの父神)からお任せになられたについて、非常にご心労あそばしたのであります。
朝鮮や、出雲の方は平定したが、さらに八十国(やそくに)(注・世界の国々)の雲霧(くもきり)を払い、八重垣を取り払うには、どうしたらよかろう、たいていのことではないと心配に沈んで、腕を組んで、うつむいておられる時に、櫛稲田姫(くしなだひめ)(注・スサノオの妻)が、弓を桶にくくりつけて、それをボンボンと叩かれた。それが弓太鼓の濫觴(らんしょう)である。
その音を聞いて、素盞嗚尊は心を和めて、そうして「八雲立つ……」の御歌(みうた)ができたのであります。その音を聞いて非常に勇ましい御心になり、お喜びになられた時に、「八雲立つ……」と出たのであります。
それが、のちには一絃琴になり、二絃琴になり、八雲琴になり、今日のたくさん絃のある琴ができたのであります。
さらに、右と左に侍女神がおりましたが、これは手撫槌(てなづち)と足撫槌(あしなづち)(注・櫛稲田姫の両親)になぞらえて、両傍に二人おったのであります。
しかし本当の手撫槌、足撫槌は、こんな若い人ではない。本当はお爺さんとお婆さんであるけれども、われわれは更生せねばならぬので、爺さん婆さんではいかんから若い人に坐ってもらうたのであります。
弓をボンボン鳴らしたのは櫛稲田姫の代わりであります。
(機関誌『明光』昭和10年12月号)
このお歌の意味は、言霊(ことたま)によって解釈すると、「出雲八重垣」の「出雲」というのは「いづくも」のこと、「どこの国も」ということでありますが、つまり、大蛇は退治したけれども、まだ世界各国には八重垣(やえがき)が築かれ、そして八雲(やくも)が立ち昇っている。「八雲」というのは「いやくも」ということである──。それで、この「いやくも」をすっかりはらわねばならぬし、また、この垣も払わねばならぬ。
今日も「八重垣」はたくさんあります。日本の物を外国に持ってゆこうと思えば、「税関」という八重垣ができている。「つまごみに」というのは──日本の国は「秀妻(ほつま)の国」というのである──日本の国もまた一緒になって八重垣をつくっているということであって、これは世界万民が一つになって、一天、一地、一君の政治にならなくては、この八重垣は取り払われないのであり、「八雲」を払い、「八重垣」を取り払って、はじめて一天、一地、一君の世界になるのであります。
これが一つの意味でありますが、もう一つの意味があります。神さまがお鎮まりになっているその神さまを中心として「八重垣」を築く。その「八重垣」は「瑞垣(みづがき)」という意味になり、外から悪魔が入れない。ここでは神さまを守る「ひもろぎ」となるのであります。八重雲(八雲)も、幾重にも紫雲がたなびいている意味にもなるし、また、真っ黒な雲が二重にも三重にも包囲しているという意味にもなるのであります。
それで、この歌は、「八重垣作るその八重垣を」で切れていて、あとがまだ残っているのであります。
内外を問わず悪い「その八重垣を」今度は取り払わねばならぬということを残して、「を」の字でおさまっているのであります。
そこで、仁徳天皇の御宇までの古典を調べますと、「歌垣に立つ」ということが、時々見当たるのであります。
「何々の皇子(みこ)歌垣に立たせ給うて詠(うた)い給わく……」とある。
「歌垣」というのは、歌を書いて、それを垣にしてあるもので、今日のこれ(歌垣を示され)がそれであります。
それで歌祭りというのは、この歌垣を中心として、自分の村々で年に一遍ずつ行なったのであります。
そうして、平素からの村人間の怨み、妬み、または一家のもめごと、夫婦喧嘩とか、そうした村内における今までのいざこざを、この歌祭りによって、神さまの御心(みこころ)を和めるとともに、村人の心持ちをも和め、一切の罪悪を払うてしまう、つまり八重雲を払うてしまうという平和な祭りであります。
その祭りによってすべてが流れ、河で尻を洗うたように綺麗になるのであります。
また、若き男女にいたしましても、昔は自由結婚でありました。
それで、歌祭りの時に、一方の男から、思う女に歌いかける。それが嫌だったら女は歌い返さない。この人と思ったら歌い返すのであります。
この言霊ということは、「真言(まこと)」とも書くのであって、真言ということは、言うたことは一切違えないということであります。つまり一切嘘は言わないことが真言であり、言霊であります。
── 一言いえば、それは違えさせられない。それで、一度、歌によって歌を返したならば、その女は一生涯、その人の妻になったことになったのであります。
その場所で一言いうたら、それで一切は決まったものであります。
また今までのいざこざも、歌祭りに列して歌を献上した以上は、それですっくりと流れたのであります。
しかしながら、この歌祭りも、源頼朝が鎌倉に幕府を開き武家の世になってからは、絶えてしまって、宮中に歌会が残っていたくらいなものであったのであります。
それから、あの定家卿が、はじめて小倉山の二尊院というところで歌祭りをされた。その時には、故人の歌も新しい人の歌も集めて、その中から百首選んだのが百人一首となったのであります。
しかし、定家卿のやられたのは、山城の国の小倉山という小暗い山であったが、今日の歌祭りは、明光殿という、明らかに光っている御殿で、処も花明山(かめやま)という明らかな山であります。(注・花明山は亀岡の古称「亀山」に由来し、天恩郷の中の小高くなっている小山のこと。明光殿は戦前そこに建っていた神殿)
この花明山の明光殿において歌祭りが行なわれたのでありますから、すべて会員および皇大神(すめおおかみ)(注・皇大神は大本の奉斎主神の神名)を奉斎する諸氏は、今日限り、いかなるもつれがあっても、何があっても、この祭りに列した以上は、すっかり河に流さんと、神さまのご神罰があたることになっているのであります。
私は、古典の中に「歌垣の中に立たせ給う」とたくさんあることについて、どこの国学者に聞いても判らなかったのでありますが、その時に、今日はもう故人になられましたけれども、私の二十三歳の時に、歌をはじめて教えてくれました岡田惟平(これひら)翁という国学者があったのであります。その人に、歌垣の作り方から、つぶさに、こういう具合にして祭り、また、こういう歴史があるものだと聞かされたのであります。
その後一遍、どうかして歌祭りをしたいと思っておりましたが、本日ここにめでたく行なうことができました。この集まった歌の中から、百人一首をこしらえる考えであります。一回ではとても百人一首はできないから、年を重ねて百人一首をつくり、後世に残る、小倉山百人一首ではなくて花明山百人一首をこしらえたいと思っているのであります。
それから今、弓太鼓(ゆみだいこ)をトントンと叩きましたが、これは、素盞嗚尊が須賀宮(すがのみや)(注・出雲の須賀の地に建てた宮殿。現在の八雲山の山頂にあった)にお入りになって、この大海原(おおうなばら)、すなわち地上世界を全部治めらるる処の責任を伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)(注・スサノオの父神)からお任せになられたについて、非常にご心労あそばしたのであります。
朝鮮や、出雲の方は平定したが、さらに八十国(やそくに)(注・世界の国々)の雲霧(くもきり)を払い、八重垣を取り払うには、どうしたらよかろう、たいていのことではないと心配に沈んで、腕を組んで、うつむいておられる時に、櫛稲田姫(くしなだひめ)(注・スサノオの妻)が、弓を桶にくくりつけて、それをボンボンと叩かれた。それが弓太鼓の濫觴(らんしょう)である。
その音を聞いて、素盞嗚尊は心を和めて、そうして「八雲立つ……」の御歌(みうた)ができたのであります。その音を聞いて非常に勇ましい御心になり、お喜びになられた時に、「八雲立つ……」と出たのであります。
それが、のちには一絃琴になり、二絃琴になり、八雲琴になり、今日のたくさん絃のある琴ができたのであります。
さらに、右と左に侍女神がおりましたが、これは手撫槌(てなづち)と足撫槌(あしなづち)(注・櫛稲田姫の両親)になぞらえて、両傍に二人おったのであります。
しかし本当の手撫槌、足撫槌は、こんな若い人ではない。本当はお爺さんとお婆さんであるけれども、われわれは更生せねばならぬので、爺さん婆さんではいかんから若い人に坐ってもらうたのであります。
弓をボンボン鳴らしたのは櫛稲田姫の代わりであります。
(機関誌『明光』昭和10年12月号)